เข้าสู่ระบบ王都の午後は、よく磨かれた硝子のように静かだった。
だがエーヴェルシュタイン公爵邸の中庭には、その静けさとは別の緊張が満ちていた。風が花壇の白百合を揺らしても、窓辺に立つ使用人たちの表情は固いままだ。主人家の長女が一夜で王太子の婚約者の座を失い、そのうえ自ら膨大な引き継ぎを済ませた――そんな事態を前にして、平穏でいられる家人など一人もいない。 レティシア・エーヴェルシュタインは、午後も引き続き書庫で作業を続けていた。 先ほどまで整理していた王城関係の目録は片づき、今度は北方辺境の旧所領に関する地図、地代の記録、過去の補修願い、井戸と水路の修繕履歴、砦の兵数推移、街道破損の報告などが机の上に広げられている。まだ正式に「行け」と命じられたわけではない。だが、王太子の婚約者でなくなった以上、王都の中心に彼女の椅子は残らない。ならば、次に自分が置かれる場所を先に把握しておくしかない。 古い羊皮紙の地図には、王国最北端に近い寒村と砦の名が並んでいた。いくつかの村には赤い印があり、そこには「冬季税収減」「流民増加」「魔獣被害」「橋梁老朽化」と書き込まれている。記録は三年前で途絶えているものも多い。つまり、王都からの関心そのものが薄れて久しいのだ。 「お嬢様」 ルイスが新しい帳面を運んできた。 「こちらは旧所領の収支報告でございます。ただ、数字がかなり荒く……」 「見ればわかるわ。おそらく、現地の書記の手が足りていないのでしょう」 ぱらりと頁をめくるだけで、レティシアにはいくつもの異常が見えた。徴税額の変動が季節要因と合わない。鉱山関連の支出だけが不自然に増えている。兵糧の名目で計上された穀物量と、実際の人口規模が釣り合わない。横流し、あるいは中抜きの匂いがした。 「……ひどいわね」 誰に聞かせるでもなく呟くと、ルイスが不安げに顔を曇らせる。 「辺境とは、皆こういうものなのでしょうか」 「いいえ。辺境だから荒いのではなく、荒くても誰も咎めなかったのでしょう」 そこまで言ったところで、書庫の扉が開いた。 入ってきたのは母、ヴィクトリアだった。 薄紫の昼用ドレスに身を包み、髪も化粧も完璧に整っている。外から見れば、朝と変わらぬ高位貴族夫人だ。だが近くで見ると、目元には疲れがあり、口許には抑え込みきれない苛立ちが刻まれている。 「少し、二人きりで話せるかしら」 その声を聞いて、マルタもルイスも即座に一礼し、静かに退出した。 扉が閉まると、母は書庫の中を見回した。王城関係の箱はすでになく、その代わりに辺境の資料が広がっているのを見て、眉がかすかに動く。 「もう次の準備をしているのね」 「しておいた方が良いかと」 「良いかと、ではありません」 ヴィクトリアは珍しく歩み寄ってきて、机の上の地図に手を置いた。 「本当に、あそこへ行くつもりなの?」 「正式にそう決まれば」 「そう決まらないように動くべきでしょう」 母の声は低い。叱責の調子ではなく、切迫した訴えだった。 「王都に残る道もあるのよ。叔父上の屋敷へいったん移ることもできるし、王家と距離を置いたまま社交界に留まる方法もある。少なくとも、あんな北の果てへ自分から行く必要はありません」 「自分から行く必要がなくても、いずれそうなります」 「どうしてそう言い切れるの」 レティシアは母を見る。 「わたくしが王都に残れば、殿下とエミリアの周囲は常に“前の婚約者”を意識させられます。王家にとっても公爵家にとっても、最も扱いにくい存在になりますわ」 ヴィクトリアは黙る。 それが事実だからだ。 「追い出される前に、自分から下がる方がまだ形が整います。静養、あるいは旧所領の視察という名目なら、家の顔も潰れにくい」 「顔、顔、顔……」 母は珍しく言葉を荒げた。 「あなたはいつもそう。どうしてそんな時まで家の体裁を優先するの。昨日、あんなことをされたのよ。あの場で、あれほど大勢の前で、あなたは……」 そこで声が詰まった。 レティシアはようやく理解する。母が守ろうとしているのは、公爵家の面目だけではないのだ。もちろんそれもある。だが同時に、娘が公衆の前で恥をかかされたことへの怒りも確かにある。 「お母様」 「私は……」 ヴィクトリアは目を伏せる。長い睫毛の影が頬に落ちた。 「私は、あなたがあそこまで平然としていたのが、かえってつらかったの」 その言葉はまっすぐだった。 「泣いてくれたなら、怒ってくれたなら、まだ母として慰めようもあったのに。あなたはあまりにも落ち着いていて、あまりにも整っていて……まるで、傷ついていないみたいでしょう」 レティシアは答えを探した。 傷ついていないわけがない。だが、傷を見せて何が変わるのか。そう考える自分を冷たいとも思う。けれどそれが、自分の生き方だった。 「……見せ方を知らないだけです」 ぽつりとそう言うと、母がゆっくり顔を上げた。 レティシアは視線を地図へ落としたまま続ける。 「小さい頃から、泣けば解決することより、整えた方が解決することの方が多かったものですから」 ヴィクトリアは何も言わなかった。 幼いレティシアは、感情の整理より先に出来事の整理をする子供だった。転んで膝を擦りむいても、「石畳の端が出ていたから危ない」と先に言う。友人と喧嘩をしても、「誰がどの順で何を言ったか」を説明しようとする。親としてはもっと素直に甘えてほしかったが、それを上手く引き出せなかったのは自分たちの側でもある。 しばしの沈黙ののち、母は息を吐いた。 「……辺境は寒いそうね」 「ええ」 「食事も粗末でしょうし、社交の相手もろくにいないでしょう」 「そうかもしれません」 「あなたには似合わないわ」 「今の王都にも、もう似合わないのでしょう」 レティシアがそう返すと、母は眉を寄せたが、否定はしなかった。 それからヴィクトリアは机の上の帳面を一冊手に取る。古い革表紙の、北部旧所領の収支記録だ。 「これは……ひどい数字ね」 「はい。三年前から補修も立て直しも十分に入っていないようです」 「こんな場所に公爵家の娘を送るなんて」 「だからこそ、送るにはちょうどいいのでしょう」 王都にとっては遠く、社交界の中心からも外れ、しかも表向きは家の所領。追放とは言いにくく、左遷としては十分。あまりにも都合がいい。 母は帳面をそっと置いた。 「お父様と話しなさい。今夜、今後のことを正式に決めるそうよ」 「承知しております」 「……それと」 ヴィクトリアは扉へ向かいかけて、振り返った。 「エミリアがあなたに会いたがっているわ」 レティシアはわずかに目を瞬く。 「先ほど来たばかりですが」 「それでも、もう一度だそうよ。泣いていたわ」 「そうですか」 母はその淡白な返事に少しだけ苛立ちを滲ませた。 「あなた、本当にあの子を責めないつもり?」 「責めて何になりますか」 「妹でしょう」 「妹ですわ」 それだけで十分だった。 ヴィクトリアは結局、何も言い返せずに書庫を去った。 入れ替わるようにして、ほどなくエミリアが現れた。 今度は一人ではなく、侍女もつけず、本当に一人きりだった。扉の前に立つ姿はひどく心細げで、昨夜の舞踏会で王太子に手を引かれていた少女と同じ人間とは思えないほど、か弱く見えた。 「入ってもいい?」 「どうぞ」 エミリアはそろそろと中へ入り、昨夜から見慣れた箱や帳面ではなく、机上の辺境地図を見て立ち尽くした。 「……本当に行くのね」 「おそらくは」 「まだ決まってないのでしょう?」 「決まっていなくても、備えは要るわ」 エミリアは唇をきゅっと結ぶ。 彼女は少し迷ったあと、レティシアの向かいに立った。座らない。まるで叱られに来た子供のようだ、とレティシアは思う。 「お姉様、あのね」 「ええ」 「わたし、本当に……昨日のこと、どうしたらいいかわからなくて」 「そうでしょうね」 「そんな言い方しないで」 初めて、エミリアの声に苛立ちが混じった。 「わたしだって困っているの。殿下は急にあんなことを言うし、お母様は何も仰らないし、周りの方たちはみんな変な顔をしてるし……」 「変な顔?」 「だって、そうでしょう? 昨日まで優しかった人たちが、今日は急によそよそしいの。侍女まで、わたしに何か言いたそうにして……」 レティシアはそこでようやく妹の焦点がどこにあるか理解した。 エミリアはいま、自分の罪悪感よりも、世界が予想通りに祝福してくれないことに戸惑っているのだ。 王太子に選ばれれば、誰もが自分を祝福し、姉も静かに身を引いて、以後は華やかな未来だけが続く。どこかでそう思っていたのだろう。だが現実は違う。昨日まで姉を通して接していた人々は、姉を失った妹を手放しに歓迎しない。王都の空気は、思ったより冷たい。 「エミリア」 レティシアはあえて優しい声で呼んだ。 「あなたは、昨夜のあの場で何を得たと思っているの?」 問いかけられ、エミリアは目を見開く。 「な、何って……殿下との婚約を……」 「ええ。では、婚約だけかしら」 「……?」 「王太子の婚約者は、殿下の隣で微笑んでいれば務まる役目ではないわ」 机上の冊子を一つ、レティシアは妹の前へ置いた。王都の有力夫人たちの嗜好と禁句をまとめた簡易控えである。昨夜から何度も目にしているものだが、エミリアにはまるで異国語の書物のように見えるだろう。 「これを、三日で覚えられる?」 「三日……?」 「では一週間で?」 エミリアは冊子をめくり、数頁見ただけで顔を青くした。 「こんなの……」 「同じようなものが、あと何十冊もあるわ。しかも本当に必要なのは書いてある内容だけではない。書いていない空気や、相手が口にしない不満を読むことの方が多いの」 レティシアは感情を抑えたまま続ける。 「あなたが昨夜得たのは、殿下の愛情だけではないわ。王城の儀礼、諸侯への配慮、王都の均衡、失敗した時に矢面へ立つ責任、それら全部よ」 エミリアの目に再び涙が溜まる。 「……わたしには無理だって言いたいの?」 「言ってほしいの?」 その返しに、エミリアは言葉を失った。 図星だったのだろう。 もしかすると彼女は、ここへ来れば姉が「大丈夫よ」と言ってくれると期待していたのかもしれない。いつものように整えて、いつものように裏で支えてくれると。 だが今、レティシアはその役目を手放している。 「お姉様はずるい」 ぽろりとこぼれたその言葉に、レティシアは目を細めた。 「ずるい?」 「だって、いつもそうじゃない。何でもわかっていて、何でも先にやってしまって。誰も気づかないところで全部片づけて、それでいて文句も言わないから、みんな当然だと思ってしまうのよ」 涙交じりの声は震えていた。 「わたしは、いつもお姉様の後ろにいた。誰もわたしに難しいことなんて求めなかった。可愛いって言われて、笑っていればよかった。でも昨日、急に……急に全部わたしのところへ来て……っ」 それは告白だった。 無邪気に奪った妹の浅さの、そのさらに下にあった本音。彼女は姉を軽く見ていたのではなく、正確には「姉が当然のようにやっていたことの重さを想像したことがなかった」のだ。 レティシアは静かに聞いた。 怒ることも、慰めることもせず。 「……お姉様は、前からわたしのこと、嫌いだった?」 「いいえ」 即答だった。 エミリアが驚いた顔をする。 「嫌いではないわ。ただ、あなたは私より愛されるのが上手ね、とは思っていたけれど」 その率直さに、エミリアは泣き笑いのような顔になる。 「何、それ……」 「事実でしょう?」 幼いころからそうだった。 レティシアが正しくあろうとすればするほど、周囲はエミリアの柔らかさに救いを求めた。厳しさより愛嬌、整然さより親しみやすさ。それ自体は悪いことではない。だが、王都という場では愛嬌だけで済まぬ局面がいくらでもある。 「ねえ、お姉様」 エミリアは震える手で冊子を抱えたまま、恐る恐る問う。 「……もし、わたしが無理だと言ったら、どうなるの?」 レティシアは少しだけ考える。 「殿下が困るでしょうね」 「そうじゃなくて……」 「王家も、公爵家も、いまさら昨夜の宣言をなかったことにはしにくいわ。あなたが無理だと言っても、すぐに私へ戻る形にはならない」 「どうして!」 「昨日のあれは、公の場での言葉だったもの」 それは残酷な現実だった。 恋愛感情なら翻ることもある。だが、政治の場で発せられた言葉には、感情以上の重さが乗る。王太子が満座の前で婚約解消を告げ、妹へ乗り換えた。それを翌日に撤回するような愚を、王家が簡単に許すはずがない。 エミリアは完全に青ざめた。 「じゃあ、わたし……」 「選ばれた責任を負うしかないわ」 泣きそうな妹を前にしても、レティシアの声はあくまで静かだった。 「それが嫌なら、昨夜、あの場で殿下の手を振りほどくべきだったのよ」 その一言は、今までで最も厳しかった。 エミリアの肩がびくりと震える。 彼女は何か言おうとして、結局、言えなかった。 レティシアはそこで初めて少しだけ息を吐いた。 「でも」 エミリアが顔を上げる。 「あなたが本気で学ぶ気があるなら、目録に抜けがないか確認するくらいの助言はするわ」 「……え?」 「勘違いしないで。あなたのためではなく、公爵家の名のためよ」 それでもエミリアの瞳に、わずかな光が戻る。 レティシアは続けた。 「ただし、これまでのように全部は整えない。整えてしまえば、あなたも殿下も何もわからないまま同じことを繰り返すから」 エミリアは息を呑み、それから小さく頷いた。 「……わかった」 その返事がどこまで本気かはわからない。だが少なくとも今の彼女は、昨夜より少しだけ現実を見ている。 その時、書庫の外から再びノックが響いた。 入ってきたのは父付きの執事である。 「お嬢様、旦那様が夕刻に家族での話し合いを設けたいと仰せです。今後の処遇につき、正式に」 「ええ、わかりました」 「エミリア様にも、ご同席をとのことです」 執事がそう告げると、エミリアの顔が目に見えて強張った。 夕刻。 公爵家の小会議室には、家族だけが集まっていた。 長机の上には必要最低限の茶器だけが置かれ、使用人も全員下がらせてある。ここで交わされるのは慰めではなく、今後の具体的な方針だ。 父クラウスが机の上に手を組む。 「では、始める」 誰も異議は唱えない。 「昨夜の件について、王家から正式な通達はまだ来ていない。だが侍従長の動き、宮廷内の反応、今朝の譲渡手続きの完了を踏まえれば、婚約解消は既定事項と見てよい」 エミリアが俯く。 母は唇を引き結ぶ。 「問題はその後だ。レティシアを王都に留めるか、あるいは家の旧所領へ下げるか」 クラウスはそこで娘を見た。 「私は、後者が妥当だと考えている」 母が目を閉じ、エミリアがはっと息を呑む。 レティシアは予想通りだったので黙っていた。 「王都に留めれば、良くも悪くも注目が集まり続ける。殿下とエミリアにとっても、公爵家にとっても、火種になる。旧所領であれば名目は立つ。視察、あるいは静養とし、当面は北部統治の立て直しを兼ねさせる」 「お父様」 エミリアがか細い声を出した。 「でも、それではお姉様が……」 「昨夜の場で、その種は蒔かれた」 クラウスの声は厳しかったが、娘への怒りというより事実の宣告だった。 「お前がどう思うかではなく、周囲がどう動くかで決まる」 エミリアは黙る。 母が静かに尋ねる。 「出立はいつ頃に?」 「王家の正式通達を待ってからだが、そう長くは引っ張れまい。数日中には動かすべきだろう」 レティシアはそこで口を開いた。 「準備はすでに始めております。旧所領の資料も確認中です」 父がわずかに頷く。 「お前ならそうすると思っていた」 「ただ、いくつか条件がございます」 母が顔を上げる。父も目を細めた。 「申してみよ」 「現地へ行く以上、単なる飾りの領主代理では意味がありません。名目だけ押しつけられて裁量がないなら、失敗の責を被るだけです。最低限の人事権、会計閲覧権、現地軍との協議権は必要です」 クラウスは低く唸った。 「欲しいものが具体的だな」 「必要なものです」 「他には」 「旧所領の過去三年分の収支原本、鉱山権に関する契約書控え、街道補修の未決裁案件一式。今の帳簿だけでは荒すぎます」 父の口角がかすかに上がる。 「……なるほど。泣き言の一つでも来るかと思えば、最初に要求するのがそれか」 「泣いても原本は出てきませんもの」 母が思わず目を伏せ、わずかに苦笑した。 家族だけの場で初めて、ほんの少しだけ空気が緩む。 だがすぐに父は真顔へ戻った。 「承知した。可能な限り整えよう」 「ありがとうございます」 「レティシア」 クラウスはそこで、父としてではなく当主として娘を見る。 「お前をあそこへ送るのは、楽な判断ではない」 「わかっております」 「だが、お前以外に立て直せる者も思いつかぬ」 それは褒め言葉であり、同時に冷酷な評価でもあった。 家の都合で動かされる娘にとっては。 だがレティシアは、その事実を淡々と受け止める。むしろその率直さの方が、情だけの慰めよりありがたかった。 「務めます」 「頼む」 話し合いはそこで終わった。 夜、部屋へ戻るころには王都の空に星が出ていた。 廊下を歩きながら、レティシアは自分が正式に“王都を離れる側”へ決まったことを、今さらのように実感した。婚約者の座を失ったことと、家を離れることは似て非なるものだ。後者には、生活そのものが変わる重みがある。 けれど不思議と、足取りは重くなかった。 部屋へ入ると、マルタが湯気の立つ茶を用意していた。窓辺には夜気が少し入り、レースのカーテンを揺らしている。 「お疲れでございましょう」 「ええ。でも、思ったよりは」 「旦那様は?」 「旧所領へ下がる方針で固まりそうよ」 マルタは目を伏せた。 「そうでございますか」 「泣きそう?」 「少しだけ」 「私より涙もろいのね」 そう言うと、マルタは困ったように微笑む。 「お嬢様が泣かなすぎるのです」 レティシアは茶器を手に取り、一口含んだ。少し熱い。だがその熱さが、張り詰めていた神経にじわりと染みる。 部屋の戸が再び控えめに叩かれた。 こんな夜更けに、とマルタが怪訝そうに扉を開けると、そこにいたのはエミリアだった。昼間よりもさらに覇気がなく、目も赤い。 「……少しだけ」 その声に、マルタは露骨に嫌な顔をしたが、レティシアは首を振った。 「入れてあげて」 エミリアは部屋の中へ入ると、しばらく何も言わなかった。手には小さな箱を抱えている。 「それは?」 問うと、彼女は箱を差し出した。 「……前に、お姉様に借りたままだった耳飾り」 開けてみると、淡い青石の小さな耳飾りが二つ入っていた。何年か前、エミリアが初めて大きな夜会へ出る時に、服に合うものがないと泣きついてきて、レティシアが貸したものだ。 「返さなくてもよかったのに」 「返したかったの」 エミリアは俯いたまま言った。 「なんか……そうしないとだめな気がして」 レティシアは箱を閉じる。 それは耳飾りの返却以上の意味を持っていた。子供のころから当然のように借り、当然のように姉が与えてくれたものを、初めて“返す”という行為。彼女なりの区切りなのだろう。 「ありがとう」 「……うん」 気まずい沈黙が落ちる。 やがてエミリアは絞り出すように言った。 「お姉様、わたし、たぶん……今すごく怖い」 「そう」 「でも、怖いって言える相手が、お姉様しかいない」 その言葉は少しだけ、レティシアの胸の奥を刺した。 妹はずっと愛され上手で、周囲に守られているように見えた。だが、いざ本当に責任の中心へ放り込まれた時、彼女は案外ひどく孤独なのかもしれない。 「……強くなりなさい、エミリア」 レティシアは静かに告げる。 「これから先、誰かが必ず助けてくれると思わないことよ」 エミリアは目を潤ませたまま、小さく頷いた。 それから、子供のころのように何かを言いたげにして、結局言わず、そっと部屋を出ていった。 扉が閉まったあと、マルタが低い声で言う。 「優しすぎます」 「そうかしら」 「はい」 レティシアは答えなかった。 窓の外では、王都の灯が静かに瞬いている。明日もまた、この街は何事もなかったように動くだろう。だがその内側では、すでに小さな歪みが生まれている。 家族の温度差もまた、その一つだった。 父は家の存続を見ている。 母は娘の傷と体裁の間で揺れている。 妹はようやく、自分が何を受け取ってしまったのかに怯え始めている。 そして自分は、そのすべてを理解しながら、もう王都の外へ向こうとしている。 レティシアは返された耳飾りの箱を机の引き出しへしまった。 それは些細な物だ。けれど今日という日の記憶を、妙に鮮やかに封じ込めてしまいそうでもあった。 「明日は旅支度も始めましょう」 彼女がそう言うと、マルタは一瞬だけ泣きそうな顔をして、それでも毅然と頭を下げた。 「かしこまりました、お嬢様」 王都の夜は静かだった。 その静けさの下で、公爵家の中の歯車もまた、少しずつ新しい位置へとずれ始めていた。監査三日目の朝、ロイエン副使は、昨日よりも早く帳場へ現れた。 まだ町の朝仕事が完全には始まっていない時刻だった。 井戸には最初の桶が下ろされ、炊事場では火が入り、北口中継場の夜火は朝の光の中で細く揺れている。 帳場では、ルイスが昨日の監査記録を清書していた。 フェルナー監査官の質問。 ロイエン副使の発言。 豆札制度への確認。 小口前借り制度案への指摘。 市場での聞き取り。 証人保護手順への要求。 それらを一つずつ整理していたところへ、扉が叩かれた。「朝早くから失礼」 入ってきたロイエンは、にこやかな顔をしていた。 けれど、その笑みは昨夜までとは少し違う。 柔らかい皮を一枚かぶせているだけで、内側の苛立ちは隠しきれていなかった。「本日は、証人への聞き取りから始めたい」 ルイスの筆が止まった。 レティシア・エーヴェルシュタインは、机の向こうで静かに顔を上げる。「フェルナー監査官は?」「まだお支度中です。私が先に確認しておきます」「では、フェルナー監査官がお揃いになってからにしましょう」 即答だった。 ロイエンの笑みが少し薄くなる。「副使である私に、確認権限がないと?」「あります」「では」「証人聞き取りは、監査官、副使、領内責任者、帳場記録官の立会いのもとで実施する。昨日お渡しした手順書にそう記しています」 ロイエンは、少しだけ首を傾けた。「手順書は、そちらが作ったものです」「はい」「王太子府の監査手順ではありません」「では、王太子府の証人保護手順をご提示ください。それと照合します」 帳場の中が
監査二日目の朝は、雨の匂いがした。 空はまだ降っていない。 けれど、北の山並みは灰色に沈み、町の者たちは誰に言われるでもなく、荷へ布をかけ始めていた。 王太子府の監査使が来ている。 その事実は、町の空気を少し固くしていた。 それでも井戸は回る。 豆は量られる。 鍛冶場では炉に火が入る。 中継小屋では、修理途中の薪置き場に新しい屋根板が打ちつけられている。 レティシア・エーヴェルシュタインは、帳場の窓からその様子を見ていた。 昨日、ロイエン副使は言った。 ――辺境で独自の権力基盤を作っているようにも見える。 火事で人が集まったことすら、そう言い換えた。 ならば今日も、彼は同じことをするだろう。 豆札を見れば、民を管理していると言う。 小口前借り制度案を見れば、私的な金融支配だと言う。 証人保護を見れば、証言を隠していると言う。 来る刃の形がわかっているなら、受ける準備はできる。「閣下」 ルイスが紙束を抱えて入ってきた。 目の下は相変わらず薄く黒い。 けれど、昨日より顔は落ち着いている。「豆札制度の記録、小口前借り制度案、借金聞き取り記録の公開範囲を分けました」「見せて」 レティシアは受け取り、一枚ずつ確認する。 豆札制度は、公開可能。 改ざん未遂記録も、名前を伏せれば公開可能。 小口前借り制度案は、まだ仮案。利用者名は出さない。 借金聞き取り記録は、証言者保護のため原則非公開。概要のみ提示。「いいわ」 レティシアは頷いた。「穴があるところには、穴があると書いてある」「はい。未確定、仮運用、要検討……
閲覧記録に、二つの名が並んだ。 ユリウス・フェルナー。 バルド・ロイエン。 それは、ただの署名ではない。 王太子府の監査使が、いつ、誰の立会いで、どの記録に触れたのか。 その最初の線だった。 ルイスは、その二つの名を見た瞬間、喉の奥が少し乾くのを感じた。 王都の役人が、自分の差し出した閲覧記録に名を書く。 つい最近までなら、考えられなかったことだ。 こちらが問い詰められる側。 こちらが見られる側。 こちらが頭を下げる側。 そう思っていた。 だが今、帳場の机の上では、王都の監査官もまた記録される側に入っている。 ルイスは、手元の紙束を整え直した。「こちらが、銀狐商会との試験取引第一便に関する記録です」 声は、思ったより落ち着いていた。「契約条件、取引数量、受領対価、町内配分、町荷車屋および荷運び組の参加記録を分けております」 フェルナー監査官は、黙って紙束を受け取った。 最初に契約条件を読み、次に数量表、最後に配分表へ目を通す。 速いが、雑ではない。 必要な場所で指が止まり、数字の端へ目が戻る。 紙を見ることに慣れている男の動きだった。 一方、ロイエン副使は椅子に深く座り、少し斜めの角度から帳場の中を見回していた。 棚。 封印札。 壁の現場図。 豆札一覧。 記録机。 そしてルイスの手元。 彼は紙だけを見ていない。 穴を探している。「銀狐商会との取引は、王太子府への事前許可を得ていないようですが」 ロイエンが、ふいに言った。 柔らかい声だった。 だが、その言葉はまっすぐ刃になっていた。
王都からの正式な先触れが届いたのは、翌日の昼過ぎだった。 その時、レティシア・エーヴェルシュタインは中継小屋にいた。 火災から数日。 焦げた西側の壁は仮板に替えられ、薪置き場は三つに分けられつつある。まだ完全ではないが、少なくとも昨夜は三つの火が並んで灯った。 弱い火だった。 けれど、三つあった。 その事実だけで、町の者たちの表情は少し違っていた。「そこ、薪を積みすぎるな。上までぎっしり積んだら、また燃えた時に逃げ道がねえ」 ガレスが若い荷運びに声を飛ばす。「でも、少ないと夜に足りませんよ」「だから三つに分けるんだろ。ひとつに詰め込むな」 横でヨハンがにやりと笑った。「お前、もう完全に火の番頭だな」「うるさい」「いいじゃねえか。出世だぞ」「火事で出世したくねえよ」 二人のやり取りに、周囲から小さな笑いが起きる。 レティシアは、その笑いを聞きながら修理状況を確認していた。 油の染みた土は削り取った。 焼けた木片も、証拠として一部を保全した。 白蔦焼印の木片は、すでに封印三号として帳場の証拠棚に置かれている。 あとは、新しい薪置き場の屋根と、馬を落ち着かせるための柵。 少しずつ、元に戻っている。 いや、戻しているのではない。 作り直している。 そう思った時だった。 南道の方から、馬の蹄音が聞こえた。 速い。 町の者たちが顔を上げる。 やがて、砦の兵が一人、息を切らせて駆けてきた。「閣下!」「何?」「王都から正式な先触れです。王太子府の印があります」
エドガル・ヴァイスナーは、王都で最も嫌う音がある。 怒号ではない。 剣戟でもない。 民衆のざわめきでもない。 紙をめくる音だ。 薄い紙が一枚、また一枚とめくられていく音。 書庫の奥で、誰かが古い記録を掘り返している音。 それは、彼にとって剣より厄介だった。 剣なら防げる。 怒号なら受け流せる。 噂なら別の噂で塗り潰せる。 だが、紙は違う。 古い紙は、黙って待つ。 誰かが見つけるまで、息を殺して残っている。 そして一度見つかれば、過去の言い訳を今日の机の上へ引きずり出してくる。 王都ヴァイスナー家分邸の書斎で、エドガルは報告書を握り潰しかけていた。 白蔦会の仮倉庫。 北方旧所領の地図。 香油瓶。 王都紙。 白蔦の小印。 中継火に関する紙片。 そして―― エドガル様確認済。 馬鹿な。 彼は声には出さなかった。 誰がそんな紙片を残した。 誰が、そんな杜撰な言葉を書いた。 あれは自筆ではない。 もちろん、自筆であるはずがない。 だが問題はそこではなかった。 自筆ではないから無罪、などという甘い話ではない。 第二王子ルシアンは、そういう男ではない。 あの地味な王子は、紙片一枚で人を斬らない。 紙片の周囲にある記録を集め、物の流れを並べ、関わった人間の足跡を拾い、最後に逃げ道を塞ぐ。 そういう相手だ。 そして厄介なことに、辺境にも同じことをする女がいる。 レティシア・エーヴェルシュタイン。 王太子の婚約者だった女。 切り捨てられ、北方旧所領へ送られたはずの女。
王都の朝は、まだ少し肌寒かった。 空は薄曇りで、王城の尖塔は灰色の光をまとっている。貴族街の石畳には夜露が残り、馬車の車輪が通るたびに、濡れた音がかすかに響いた。 第二王子ルシアンは、王立書庫の奥で短い報告書を読んでいた。 辺境から届いた、中継小屋火災の一報。 薪置き場から出火。 油布片。 白蔦焼印木片。 種火付近の別火種。 中継機能は限定的に維持。 夜火三箇所、仮復旧。 最後の一文に、彼はしばらく目を止めた。 燃やされたのに、火は三つに戻った。「……あの土地は、よく踏みとどまる」 独り言のように言うと、近習のカイルが小さく頷いた。「現場で修理まで始めたようです」「火をつけた側からすれば、面白くないだろうな」「でしょうね」 カイルの返事には、少しだけ苦さがあった。 彼はつい先日、療養院でベルナール・ロックと接触している。 そして、ベルナールが残した震える一文を持ち帰った。 箱は若君へ戻した。私は中身を決めていない。 まだ断定には足りない。 しかし、王都と辺境を結ぶ線としては十分すぎるほど重い。 ルシアンは報告書を閉じた。「白蔦会の仮倉庫は」「押さえています」「ヴァイスナー家分邸の近く、だったな」「はい。表向きはランベール香房の保管部屋です。香料商の倉庫という扱いで借りられていました」「香料商か」 ルシアンは、ほんのわずかに目を細めた。 香木。 香油。 王都紙。 白蔦会。 辺境に届いた空箱の香りと、王都の倉庫の香りが、同じ線の上にある。







